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『Tシャツが乾くまで』あずさという人物に共感できること・できないこと|甘え方を知らないまま大人になった女性の孤独を考察

エンタメ

『Tシャツが乾くまで』のあずさを見ていると、「この気持ちは分かる」と思う部分がある一方で、「それでも、その選択は違うのでは?」と思う部分もあります。

あずさは、単純に「悪い女性」として片付けられる人物ではありません。

むしろ彼女の複雑さは、感情には共感できるのに、その感情から選んだ行動には共感できないところにあるのではないでしょうか。

そして第7話までを見て、もう一つ気になるのが、あずさの「甘え方」です。

もしかするとあずさは、子どもの頃から誰かに甘えることができず、一人で頑張ることを覚えてしまった女性なのではないでしょうか。

もしそうだとしたら、あずさが充に惹かれていく理由も、少し違って見えてきます。

あずさに共感できるのは「自分の時間が欲しい」という気持ち

家族がいると、自分よりも家族を優先することが増えていきます。

子どものこと。

家のこと。

夫のこと。

毎日の予定。

もちろん、家族を大切にしているからこそ頑張れることもあります。

でも、家族を愛していることと、疲れないことは別です。

どれだけ家族が大切でも、

「今日は誰のことも考えずに過ごしたい」

「少しだけ一人になりたい」

と思う日があっても不思議ではありません。

一人でスマホを触りたい。

好きなことをしたい。

何も考えずにぼーっとしたい。

誰にも話しかけられずに過ごしたい。

そんな時間が欲しくなること自体は、悪いことではありません。

だから、あずさが「日常から少し離れたい」と感じる気持ちには共感できます。

「ママを休みたい」と思うことは、家族を愛していないという意味ではない

母親が、

「今日はママを休みたい」

と思ったとしても、それは子どもや家族を嫌いという意味ではありません。

ずっと誰かのために動いているからこそ、一度だけ自分のために時間を使いたくなる。

それは自然なことです。

本当なら、

「今日は私が子どもを見るよ」

「一人で出かけておいで」

「好きなことしてきたら?」

と誰かに言ってもらえるだけでも、かなり救われることがあります。

あずさにも、そういう時間が必要だったのかもしれません。

でも、そこで一つ問題があります。

あずさは「誰かに甘える」ということ自体が、あまり得意ではなかったのではないでしょうか。

あずさは「甘え方」を知らないのではないか

ここは、あずさという人物を考えるうえで大きなポイントだと思います。

もし子どもの頃に親がいなかった、あるいは親に十分甘えることができない環境で育ったのだとしたら。

子どもにとって本来、

「つらい」

「寂しい」

「助けて」

「抱きしめて」

「話を聞いて」

と言っていい場所が、十分になかったのかもしれません。

子どもは、誰かに甘える経験を通して、

「自分は頼っていい」

「弱音を吐いても大丈夫」

「誰かに助けてもらっていい」

という感覚を覚えていきます。

でも、それを経験しないまま大人になったらどうでしょう。

大人になって苦しくなったとき、

「私は今、誰にどう甘えればいいんだろう?」

ということ自体が分からないかもしれません。

これは、あずさの行動を考えるうえで、とても重要な視点だと思います。

子どもの頃に「頑張ること」を覚えてしまった人

親に甘えることができない子どもは、早い段階で「自分で頑張る」ことを覚えてしまうことがあります。

もちろん、これはあずさについての一つの仮説です。

でも、もしあずさが幼い頃から、

「自分で何とかしなければいけない」

「迷惑をかけてはいけない」

「弱音を吐いてはいけない」

と考えて生きてきたのだとしたら。

大人になっても、自分の気持ちを上手に扱えないことがあるのではないでしょうか。

疲れていても、

「疲れたから休みたい」

と言えない。

寂しくても、

「寂しいから誰かにそばにいてほしい」

と言えない。

助けてほしくても、

「助けて」

と言えない。

だから、自分でも気づかないまま、心の中にいろいろなものを溜め込んでしまう。

そして、限界に近づいたときに初めて、自分が何を求めていたのか分からなくなる。

あずさには、そんな危うさがあるように感じます。

本当は「甘えたい」のに、「甘えたい」と言えない

あずさにとって、一番難しいのはここなのかもしれません。

「私は寂しい」

「誰かに支えてほしい」

「今日は何もしたくない」

「誰かに話を聞いてほしい」

と素直に言えれば、状況は変わっていたかもしれません。

でも、甘えることに慣れていない人ほど、それができません。

だから代わりに、

「自分を見てくれる人」

「自分を必要としてくれる人」

「自分の話を聞いてくれる人」

を求めてしまう。

そこで現れたのが充だったと考えると、あずさと充の関係にも違った意味が見えてきます。

あずさに必要だったのは「充」ではなく「話を聞いてくれる人」だったのかもしれない

もちろん、あずさが充に抱いている気持ちが偽物だったという意味ではありません。

充への恋愛感情は、本物だったのかもしれません。

ただ、その気持ちが生まれる前に、

「誰かに自分の気持ちを聞いてほしかった」

という欲求があった可能性はあります。

本来なら、母親や友人などに、

「最近ちょっと疲れてる」

「自分の時間が欲しい」

「私はどうしたらいいんだろう」

と話せればよかった。

話すことで気持ちを整理できれば、それだけで救われることもあります。

でも、そういう相手がいなかったら。

そこに、自分の話を聞いてくれる男性が現れたら。

しかも、その男性が自分を一人の女性として見てくれたら。

心が動いてしまうのは、理解できる部分があります。

「母親に話を聞いてもらう」という選択肢がなかったのかもしれない

ここも、あずさを考えるうえで切ないところです。

人によっては、大人になってからも母親に、

「最近こんなことがあって」

「ちょっと疲れた」

「どうしたらいいと思う?」

と話すことがあります。

答えが欲しいわけではなく、ただ話を聞いてもらいたい。

「そうだったんだね」

と言ってもらいたい。

それだけで少し気持ちが楽になる。

でも、もしあずさには、そうやって甘えられる親がいなかったのだとしたら。

彼女は「甘える」という方法を知らないまま大人になった可能性があります。

そして、その代わりになる場所を、充との関係の中に見つけてしまった。

そう考えると、あずさの行動をただ「男に逃げた」と見るのとは違う人物像が浮かんできます。

でも「甘えたい気持ち」と「男性との関係」は別問題

ここは、あずさへの共感とは切り離して考えたいところです。

「甘えたい」

「疲れた」

「寂しい」

「自分を見てほしい」

という感情は、理解できます。

でも、それを理由に誰かを傷つける行動を選ぶことは、別問題です。

だから、

「あずさの気持ちは分かる。でも、あずさの選択には共感できない」

という感情が生まれる。

これは矛盾ではありません。

むしろ、人間を理解するということは、相手の感情を理解したうえで、その行動については自分なりに考えることなのだと思います。

「一人で休む」のと「男と過ごす」のは違う

例えば、

「今日はママを休みたい」

と思ったなら、一人で過ごすこともできます。

友達と会うこともできます。

趣味を楽しむこともできます。

家族に子どもを預けて、自分のための時間を作ることもできます。

だから、

「ママを休みたい」=「男性と関係を持ちたい」

ではありません。

ここは明確に違います。

あずさが求めていたのが「自分を取り戻すこと」だったのだとしたら、本来はもっと別の方法があったのかもしれません。

ただ、あずさには、その方法を自分で見つけるための経験が足りなかったのかもしれない。

それが、彼女の危うさにつながっているように感じます。

あずさは「女性として見てほしかった」のかもしれない

家庭の中では、あずさは妻であり、母親です。

でも、充の前では違う。

一人の女性として話せる。

一人の人間として見てもらえる。

自分の気持ちを聞いてもらえる。

そういう時間が、あずさにとって強烈だったのではないでしょうか。

もし子どもの頃から「誰かに甘える」という経験が少なかったのなら、大人になって初めて、

「自分を受け止めてくれる人」

に出会ったとき、その存在を必要以上に大きく感じてしまうこともあるのかもしれません。

それが恋愛なのか、安心感なのか、寂しさを埋めたい気持ちなのか。

本人にも区別できなくなってしまう。

あずさは「悪い女性」なのではなく「弱さの扱い方を知らない女性」なのかもしれない

もちろん、これはあくまで作品から読み取る一つの考察です。

あずさの過去がすべて明かされているわけではありません。

だから断定はできません。

でも、

「子どもの頃に誰かに甘えることができず、一人で頑張ることを覚えてしまった」

という背景を想像すると、あずさの行動が少し違って見えてきます。

彼女は弱いから誰かに寄りかかったのではなく、

弱いときにどう助けを求めればいいのかを知らなかった

のかもしれません。

そして、初めて自分を受け止めてくれる相手を見つけた。

それが充だった。

だからこそ、簡単には離れられなくなった。

これは、とても切ない関係でもあります。

あずさに共感できること・できないこと

ここまでを整理すると、あずさに共感できるのは、

● 「ママを休みたい」という気持ち

● 自分だけの時間が欲しくなること

● 誰かに話を聞いてほしいこと

● 一人の女性として見てほしいこと

● 自分自身を取り戻したいと思うこと

● 寂しさを感じること

● 誰かに甘えたいと思うこと

です。

一方で、共感できないのは、

● その寂しさを男性との関係で埋めようとすること

● 咲子への後ろめたさを感じながらも関係を進めること

● 自分の苦しさを、相手を傷つけることの理由にしてしまうこと

です。

つまり、

感情には共感できる。
でも、行動は肯定できない。

これが、あずさという人物を見ていて感じる一番大きな矛盾なのではないでしょうか。

まとめ|あずさが本当に欲しかったのは「恋」ではなく「甘えてもいい場所」だったのかもしれない

『Tシャツが乾くまで』のあずさを見ていると、どうしても「充との関係」に目が行きます。

でも、その前にある「あずさ自身の孤独」を考えると、もっと違った物語が見えてくる気がします。

もし子どもの頃から親に甘えることができず、一人で頑張ることを覚えてしまったのだとしたら。

大人になったあずさは、

「疲れた」

「寂しい」

「助けて」

「誰かに話を聞いてほしい」

と、素直に言うことができなかったのかもしれません。

そして、自分でも何を求めているのか分からないまま、充という「自分を見てくれる人」に惹かれていった。

もしかすると、あずさが本当に欲しかったのは、恋愛そのものではなく、

「甘えてもいい場所」

だったのではないでしょうか。

誰かに、

「今日は頑張らなくていいよ」

「疲れたんだね」

「一人で抱えなくていいよ」

と言ってもらえる場所。

それがあれば、あずさは違う選択をできたのかもしれません。

もちろん、充への気持ちが本物だった可能性もあります。

だからこそ、簡単には答えが出ません。

あずさの気持ちは分かる。

でも、その選択には共感できない。

その両方を抱えながら見るからこそ、あずさという人物は面白く、そして切なく感じられるのだと思います。

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